July 06, 2010
『GITANE』主題歌の収録
きっとそこは、暖色の板が張り巡らされた空間に違いない。
三畳ぐらいありそうな一枚ガラスの向こう側では、耳を塞いだヘッドフォンを頭痛の種みたいに握り締める女性がいる。かたや一枚ガラスのこちら側では、タバコをくわえた男が、片耳だけにヘッドフォンを押し当て、レバーを鈴なりにした機材と悶着している。男の機嫌が彼自身にしかわからない何かに乗ると、手刀が耳元から振り下ろされる。そして束の間、二人には静寂が降りてくる。そう待たせはしないだろう、やがて二人の身体は、一枚ガラスを挟んで、同じ船に乗ってでもいるかのように揺らぎ始めるのだ。
これが私の想像する収録だった。スタンドマイクの前でヴォーカルが魂を削ぎ落としながら悶える姿を、これじゃだめだと癇癪を起こして機材にあたり散らすエンジニアの姿を、私は想像していた。
しかし、実際の収録には、板張りの部屋もなければ一枚ガラスもないし、トランスした歌姫も、癇癪を起こす
エンジニアもいなかった。当然だ、部屋撮りなのだ。下手をすれば、ご近所さんの布団たたきや、さおだけやの放送が収録を妨害しかねない環境なのだ。歌姫もエンジニアも、ふたりとも知り合い・友人なのだ。突然そんな風にキャラクターが豹変したら、私は匙を投げるしかない。
しかしそれにしたって、思いのほか味気ない、というのが素直な感想だった。収録が始まる前、「マイクから握り拳一個分、そこで身体固定しようか」というまさかの一声に我が耳を疑った。収録がはじまって、それが冗談でないことを知った。ヴォーカル維緒嬢の身体は、ツタンカーメンみたいだった。私はさながら、ツタンカーメンの墓場で一緒に発掘された石ころだった。エンジニア志賀は、早稲田大学教授の吉村作治さんみたいだった。
とは言っても、やはり収録は山あり谷ありだ。流麗な維緒嬢の歌声があるからといって、全て手直しなしとはいかないようだ。歌い方や、言葉の運び方、メロディとの調和など、エンジニアからの要望は、恐らくあげればキリがないだろう。しかし、ヴォーカルの体力とて無限ではない。力量もまた無限ではない。どこでどう折り合いをつけて、どこに落とすのか、模索しながらの収録なのだ。そしてきっと、それこそが創作活動なのだ。
主題歌の収録と編集はまだまだ続く。私もへらへらしては、いられない。

三畳ぐらいありそうな一枚ガラスの向こう側では、耳を塞いだヘッドフォンを頭痛の種みたいに握り締める女性がいる。かたや一枚ガラスのこちら側では、タバコをくわえた男が、片耳だけにヘッドフォンを押し当て、レバーを鈴なりにした機材と悶着している。男の機嫌が彼自身にしかわからない何かに乗ると、手刀が耳元から振り下ろされる。そして束の間、二人には静寂が降りてくる。そう待たせはしないだろう、やがて二人の身体は、一枚ガラスを挟んで、同じ船に乗ってでもいるかのように揺らぎ始めるのだ。
これが私の想像する収録だった。スタンドマイクの前でヴォーカルが魂を削ぎ落としながら悶える姿を、これじゃだめだと癇癪を起こして機材にあたり散らすエンジニアの姿を、私は想像していた。
しかし、実際の収録には、板張りの部屋もなければ一枚ガラスもないし、トランスした歌姫も、癇癪を起こす
エンジニアもいなかった。当然だ、部屋撮りなのだ。下手をすれば、ご近所さんの布団たたきや、さおだけやの放送が収録を妨害しかねない環境なのだ。歌姫もエンジニアも、ふたりとも知り合い・友人なのだ。突然そんな風にキャラクターが豹変したら、私は匙を投げるしかない。
しかしそれにしたって、思いのほか味気ない、というのが素直な感想だった。収録が始まる前、「マイクから握り拳一個分、そこで身体固定しようか」というまさかの一声に我が耳を疑った。収録がはじまって、それが冗談でないことを知った。ヴォーカル維緒嬢の身体は、ツタンカーメンみたいだった。私はさながら、ツタンカーメンの墓場で一緒に発掘された石ころだった。エンジニア志賀は、早稲田大学教授の吉村作治さんみたいだった。
とは言っても、やはり収録は山あり谷ありだ。流麗な維緒嬢の歌声があるからといって、全て手直しなしとはいかないようだ。歌い方や、言葉の運び方、メロディとの調和など、エンジニアからの要望は、恐らくあげればキリがないだろう。しかし、ヴォーカルの体力とて無限ではない。力量もまた無限ではない。どこでどう折り合いをつけて、どこに落とすのか、模索しながらの収録なのだ。そしてきっと、それこそが創作活動なのだ。
主題歌の収録と編集はまだまだ続く。私もへらへらしては、いられない。

May 30, 2010
GONE BABY GONE ―愛しき者は全て去りゆく―
映画よりも読書派で、たぶん洋画よりも邦画派で、ブロンドよりも黒髪好きな自分が、まさかウォルトディズニースタジオから発売されたDVDなんぞで感嘆の声を漏らすなんて、夢にも思っていませんでした。毎度毎度、洋画に対しては冷めた眼差しをおくってきた私なのですが、『GONE BABY GONE』に横っ面を叩かれました。まぁやっぱりハードボイルドなんですけどね。
ご存知の方も多いと思いますが、デニス・ルヘイン著である『愛しき者はすべて去りゆく』を原作とした映画です。ボストンを舞台としたパトリック&アンジー シリーズの一作ですが、とくにシリーズ中第一作でもなければ最終作でもなく、特別な位置づけはありません。正直、自分にはなぜ監督がこの一作に目をつけたのか知る由も無いわけですが、しかしこの監督のこの作品に対する入れ込みようはなかなかのものなのではないでしょうか。
個人的に最も琴線に触れたのは、プロットの構成でもなければ、役者の演技でもなく、もちろんヒロインの黒髪でもなく、それは映像の底で大河のようにうねり流れる街の空気です。ボーナス・コンテンツで作家や監督、役者までもが惜しみなくボストンの町へ抱く郷愁と哀れみに似た執着を語るわけですが、この執着を取り巻くように守っているのが、実際のボストンの街並みと人々です。多分ですけど、役者や監督がどんなにこの街に愛着と執着を持っていたとしても、この実在の街によるいわば許容のような黙認がなければ、この映画はこれほどまでのリアリティを持つことはなかったのではないでしょうか。
似ているのは矢作俊彦氏にとっての横浜で、似ていないのはチャンドラーにとってのロサンジェルスです。街の中から物語を滲み出させるのか、街の外から物語を炙り出すのか、自分の作品も、そんなことを考えながら作っていければ幸せです。
ゴーン・ベイビー・ゴーン [DVD]
出演:ケイシー・アフレック
販売元:ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント
発売日:2008-09-17
おすすめ度:
クチコミを見る
ご存知の方も多いと思いますが、デニス・ルヘイン著である『愛しき者はすべて去りゆく』を原作とした映画です。ボストンを舞台としたパトリック&アンジー シリーズの一作ですが、とくにシリーズ中第一作でもなければ最終作でもなく、特別な位置づけはありません。正直、自分にはなぜ監督がこの一作に目をつけたのか知る由も無いわけですが、しかしこの監督のこの作品に対する入れ込みようはなかなかのものなのではないでしょうか。
個人的に最も琴線に触れたのは、プロットの構成でもなければ、役者の演技でもなく、もちろんヒロインの黒髪でもなく、それは映像の底で大河のようにうねり流れる街の空気です。ボーナス・コンテンツで作家や監督、役者までもが惜しみなくボストンの町へ抱く郷愁と哀れみに似た執着を語るわけですが、この執着を取り巻くように守っているのが、実際のボストンの街並みと人々です。多分ですけど、役者や監督がどんなにこの街に愛着と執着を持っていたとしても、この実在の街によるいわば許容のような黙認がなければ、この映画はこれほどまでのリアリティを持つことはなかったのではないでしょうか。
似ているのは矢作俊彦氏にとっての横浜で、似ていないのはチャンドラーにとってのロサンジェルスです。街の中から物語を滲み出させるのか、街の外から物語を炙り出すのか、自分の作品も、そんなことを考えながら作っていければ幸せです。
ゴーン・ベイビー・ゴーン [DVD]出演:ケイシー・アフレック
販売元:ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント
発売日:2008-09-17
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May 02, 2010
流れるのは
ピラニアポリープ、ヴォーカル維緒嬢の薦めでコントを観にいってきました。と、自分では思っていたのですが、実際のところは、「お薦めのコントユニットがゲストとして招待された、アマチュア団体による小劇集を観にいってきました」といったところでしょうか。正直ついこの前、劇団四季の『キャッツ』で舞台演劇の鑑賞を初体験した自分にとって、これはなかなか敷居が高いです。私が持っている演劇の知識って、平田オリザ氏著の『演劇入門』に書いてあったことくらいなものなのですから。
それでもこうブログの記事として取り上げてしまった以上、自分の立場から何かメッセージを発信しておく必要が――いや、実際のところは、単なる日記・覚書です。気が向いたら字面を追ってみてください。
で、なにを観たのか。
『15 Minutes Made Volume 8』
〜以下宣伝文句抜粋〜
今注目の劇団、6 団体の作品を一度に楽しめる演劇イベント 〜中略〜 色彩豊かな15分×6をどうぞお楽しみ下さい。たかが15分と侮ることなかれ。あなたの心を絡めとるには充分な時間なのです。
〜以上〜
と、良くまとまった宣伝文句に身体だけでなく心まで踊らされ、いざ池袋へ。劇場は、なんだかこ洒落た喫茶店が一階で幅を利かせるビルディングの四階だか五階にありました。テレビのモニターで見たことがあるお兄さんも、もぎりの列に並んでいます。なんだか見てはいけないアンダーグラウンドな世界を垣間見てしまったような一抹の不安を感じつつも場内へ。
座席につき、手に取ったパンフレットを眺めると「デートは劇場で」「2036年にはふつうの高校生がデートで演劇を観るような社会を目指しています」。なるほど。この界隈では、もしかしたら高校生時代には男女の交際経験を持っていることが前提であり、しかも高校生時代には入場料一人二千五百円に臆することがなくデートで盛り上がっていた人々が寄り集っているのかもしれません。しかもそれがふつうに。自分が場違いなところにいることを確信しつつ、無常にも舞台の幕は上がっていきます。
六つの団体の登場順序に規則はないようで、なんというか、食事で言うなれば、「おはぎ→ケーキ→カレー→おでん」みたいな流れがやってきます。はい、観客も含めて皆さん器用だなと。劇が始まってからの二時間は、維緒嬢お勧めのコント以外、それはもうゆるやかに流れていきました。良い意味でも悪い意味でも、無味無臭で喉ごしゼロの液体を飲んでいるような感じです。不味くもなく、美味くもなく、なんの引っかかりもなく、時は淡々と過ぎていきます。なんてコメントしづらい……。個人的にはコントユニットが最も好みに合っていた、というぐらいの感想しか書けません。あくまで好みです。
でもせっかくこの場違いな所へ足を運んだわけですから、コント以外について感じたことを少々。
舞台の背景に一貫して流れるのは、若者の孤独とすれ違い。不思議なもので、別に共通したテーマを設けていたわけではないと思いますが、随所で謀ったように若者達はすれ違っていきます。劇ごとに手を変え品を変え、もっと限定して言ってしまえば、コント以外では、男女のすれ違う様のみばかりが表現されています。もしかしたら、この界隈の人々は、男女ですれ違ってばかりいるのかもしれません。いや、ちょっと皮肉っぽくなりました。悪気はなく、ただそう感じてしまったという事実を書いたつもりです。
体験記なのか感想文なのかはたまた評論なのか、なんだかまとまりがなくなりました。しかし、今まで一度も足を踏み入れたことの無い世界を垣間見れたので、貴重な経験になったことは事実かと思います。こういった未知の世界でも、積極的に覗いてゆく姿勢は大切です。
まだまだ世の中知らないことだらけですね。
May 01, 2010
忙しいって言いたくない
だけど、絶対4月は忙しかったと思いますよ。
会うなりいつも忙しい忙しいとぼやきながら、常に睡眠が不足しているって訴える方ってのもいますが……。そういうの抜きにして、私はここ最近本当に暇がありませんでした。暇は作るもの、と常々考えているのですが、風邪を引いて頭も回らないし、仕事も積もるし、同人活動ができないフラストレーションは溜まる一方だし、そうしている間にもGITANEテーマソングの歌詞が上がってきまして――いや、これは良いことです。
曲の仕上がりは順調に進んでいる模様ですが、肝心のシナリオ執筆作業は露ほどにも進まずにいます。
しかし、時にはそんな日もあるでしょう。
ネタはデスクの上で発酵中です。
次は蒸留・熟成の段階です。
収穫の季節、食べごろを待ちましょう。
会うなりいつも忙しい忙しいとぼやきながら、常に睡眠が不足しているって訴える方ってのもいますが……。そういうの抜きにして、私はここ最近本当に暇がありませんでした。暇は作るもの、と常々考えているのですが、風邪を引いて頭も回らないし、仕事も積もるし、同人活動ができないフラストレーションは溜まる一方だし、そうしている間にもGITANEテーマソングの歌詞が上がってきまして――いや、これは良いことです。
曲の仕上がりは順調に進んでいる模様ですが、肝心のシナリオ執筆作業は露ほどにも進まずにいます。
しかし、時にはそんな日もあるでしょう。
ネタはデスクの上で発酵中です。
次は蒸留・熟成の段階です。
収穫の季節、食べごろを待ちましょう。
March 21, 2010
ハードボイルドとアメトラ
ここ数年、街を歩くとアメリカン・トラディショナルな装いをした若者たちが目につくようになりました。正直、私はファッションに疎い方ですが、しかしそれでも一応、アメトラなんて言葉は耳にしたことがありますし、曲がりなりにも社会人をしています。現代では、1900年代のアメリカと違って、かっちりアイビーかっちりプレッピーではない、少し着崩したアメトラというやつを、流行に取り入れているようです。ボタンダウンとか、チノパンとか、黒縁のウェリントンやらスクールジャケット、コイン・ローファーに、ニットタイなどなど。
はい、もう勘の良い方は、ここまで読んで今回の記事の落とし所を予測できてしまったかもしれません。まぁなんと言うか、このアメトラって、ざっくばらんに言ってしまえば、私のイメージでは、ハードボイルドに登場する若造達がこぞって身に纏っている服装じゃないですか。ハードボイルドとアメトラって、時代で見ても丁度重なるわけですし、矢作俊彦氏の小説ではもはや登場人物の若造の2人に1人はアイビーですよ。いや、言い過ぎじゃないと思います。
で、ネットを徘徊していたら、こんな一文を見つけました。(以下括弧内抜粋)
“60年代のアイビー、80年代のプレッピーブームと比べると、今は多様なファッションスタイルがあって、選択肢がたくさんあります。1つのスタイルがシーンを圧巻することは難しいでしょう。だから、それらと掛け合わされ、結びつく形で広がっていったのではないでしょうか。いろいろとミックスされているので、アメトラ的な何かに見えないだけであって、よく見ると、アメトラはしっかり根を張っているように、私には思えます。”
この一文を読んで思うのが、アメトラってハードボイルドに似ているなってことです。先にも書いたように、1900年代当時のアイテムが、現代流にアレンジされて、今風に着こなされている。ハードボイルドというジャンルも同じように、文体や描写方法またストーリーといったアイテムが、現代流にアレンジされて、今風に書き直されている。いろいろとミックスされているので、ハードボイルドな何かに見えないだけであって、よく見ると、ハードボイルドはしっかり根を張っている。1900年代半ば頃に生まれた文化ってやつに、驚かされますね。
これをきっかけに、こんな本(下記に掲載)読んでみたくなったのですが、手に入らないみたいですね。
はい、もう勘の良い方は、ここまで読んで今回の記事の落とし所を予測できてしまったかもしれません。まぁなんと言うか、このアメトラって、ざっくばらんに言ってしまえば、私のイメージでは、ハードボイルドに登場する若造達がこぞって身に纏っている服装じゃないですか。ハードボイルドとアメトラって、時代で見ても丁度重なるわけですし、矢作俊彦氏の小説ではもはや登場人物の若造の2人に1人はアイビーですよ。いや、言い過ぎじゃないと思います。
で、ネットを徘徊していたら、こんな一文を見つけました。(以下括弧内抜粋)
“60年代のアイビー、80年代のプレッピーブームと比べると、今は多様なファッションスタイルがあって、選択肢がたくさんあります。1つのスタイルがシーンを圧巻することは難しいでしょう。だから、それらと掛け合わされ、結びつく形で広がっていったのではないでしょうか。いろいろとミックスされているので、アメトラ的な何かに見えないだけであって、よく見ると、アメトラはしっかり根を張っているように、私には思えます。”
この一文を読んで思うのが、アメトラってハードボイルドに似ているなってことです。先にも書いたように、1900年代当時のアイテムが、現代流にアレンジされて、今風に着こなされている。ハードボイルドというジャンルも同じように、文体や描写方法またストーリーといったアイテムが、現代流にアレンジされて、今風に書き直されている。いろいろとミックスされているので、ハードボイルドな何かに見えないだけであって、よく見ると、ハードボイルドはしっかり根を張っている。1900年代半ば頃に生まれた文化ってやつに、驚かされますね。
これをきっかけに、こんな本(下記に掲載)読んでみたくなったのですが、手に入らないみたいですね。
February 22, 2010
ATOKで、ウィスキーマガジンライヴ!
文章変換ソフトATOKの試用版をダウンロードしたので、今回の記事は長文をだらだら書きつつ、本ソフトがどこまで一発変換に対応できるか、その力量を試してみたいと思います。と、書いている一行目の文章にしてすでに、その途中で区切りを入れずに一発変換できたところを見るとこれはもしかするともしかするかも。
音楽会のマイケル・ジャクソンに先立ち、ビール・ウィスキー界のマイケルジャクソンが二年ほど前に亡くなっていたのをご存じだろうか。本名マイケルジャクソン、職業ライターのイギリス人で、THIS IS ITの人とは正真正銘の別人だ。それ以外、私は彼についてほとんど何も知らないが、たぶん、ウィスキーマガジンライヴに参加せずに、ただ書物だけからウィスキーに関するうんちくを脳みそに詰め込んでいたとしたら、彼の存命中に彼を知ることはなかったに違いない。彼の亡くなる一年前に、滑り込みぎりぎりセーフでその名を知り、カタログの向こうでその白髭に包まれた赤ら顔から溢れる満面の笑みに、ウィスキーのもたらす至福の瞬間なるものを垣間見たような気がしたのを、今でも鮮明に覚えている。私にとって、土屋守の文章以来、久しぶりに本能的にウィスキーの楽しみを伝えてくれた媒体だった。
彼がラガヴーリンというクセのあるモルトに95点という高評価を与えたのは有名な話で、賛否両論あるようだが、この酒を弔いにするには勇気のいるところだと思う。なぜ藪から棒にそんなことを言い出したかというと、実は先日ウィスキーマガジンライヴ!にて、ノッカンドゥーに再会してしまったからだ。このラベルにその昔、北方謙三氏が「棒っきれみたいな味で、飲んでいると棒っきれみたいな気分になる」と評したことがある。要はこの評通りで、確かに私の作品では弔い酒としてタリスカーが登場したりするけど、タリスカーもラガヴーリンも、ものすごくピーティで、爆発力があって、静かな死のイメージじゃなくて、色鮮やかな生命力に富んだインパクトを持っている。GITANEにタリスカーを登場させたのには理由があるのだけれど、それは脱線になるから今はおいておきます。と、まぁこのタリスカーとラガヴーリンに持っている印象について話したので解るとおり、ノッカンドゥーはその真逆で、本当に静かな味がする。ライヴに帯同したあんだーそんの表現では「戦争から帰ってこれない味」。このレトリックが秀逸過ぎて、なんとなくこんな記事を書きたくなった。
「棒っきれみたいな味」これはもちろん言い得て妙。でも「戦争から帰ってこれない味」これは言い得て妙じゃない。なのに私は「戦争から帰ってこれない味」という表現の方が個人的には好みだったりする。そういうわけで、そのレトリックのおかげで死を思い出し、マイケル・ジャクソンを追悼したくなり、ノッカンドゥーを弔い酒に推したくなる。なんだって二年もたった今になってマイケル・ジャクソンの死を持ち出してくるのかって思う人は思うだろうけれど、ノッカンドゥーにはそれだけ死亡フラグが立っているのです。
最後に、ATOKの購入決めました。
音楽会のマイケル・ジャクソンに先立ち、ビール・ウィスキー界のマイケルジャクソンが二年ほど前に亡くなっていたのをご存じだろうか。本名マイケルジャクソン、職業ライターのイギリス人で、THIS IS ITの人とは正真正銘の別人だ。それ以外、私は彼についてほとんど何も知らないが、たぶん、ウィスキーマガジンライヴに参加せずに、ただ書物だけからウィスキーに関するうんちくを脳みそに詰め込んでいたとしたら、彼の存命中に彼を知ることはなかったに違いない。彼の亡くなる一年前に、滑り込みぎりぎりセーフでその名を知り、カタログの向こうでその白髭に包まれた赤ら顔から溢れる満面の笑みに、ウィスキーのもたらす至福の瞬間なるものを垣間見たような気がしたのを、今でも鮮明に覚えている。私にとって、土屋守の文章以来、久しぶりに本能的にウィスキーの楽しみを伝えてくれた媒体だった。
彼がラガヴーリンというクセのあるモルトに95点という高評価を与えたのは有名な話で、賛否両論あるようだが、この酒を弔いにするには勇気のいるところだと思う。なぜ藪から棒にそんなことを言い出したかというと、実は先日ウィスキーマガジンライヴ!にて、ノッカンドゥーに再会してしまったからだ。このラベルにその昔、北方謙三氏が「棒っきれみたいな味で、飲んでいると棒っきれみたいな気分になる」と評したことがある。要はこの評通りで、確かに私の作品では弔い酒としてタリスカーが登場したりするけど、タリスカーもラガヴーリンも、ものすごくピーティで、爆発力があって、静かな死のイメージじゃなくて、色鮮やかな生命力に富んだインパクトを持っている。GITANEにタリスカーを登場させたのには理由があるのだけれど、それは脱線になるから今はおいておきます。と、まぁこのタリスカーとラガヴーリンに持っている印象について話したので解るとおり、ノッカンドゥーはその真逆で、本当に静かな味がする。ライヴに帯同したあんだーそんの表現では「戦争から帰ってこれない味」。このレトリックが秀逸過ぎて、なんとなくこんな記事を書きたくなった。
「棒っきれみたいな味」これはもちろん言い得て妙。でも「戦争から帰ってこれない味」これは言い得て妙じゃない。なのに私は「戦争から帰ってこれない味」という表現の方が個人的には好みだったりする。そういうわけで、そのレトリックのおかげで死を思い出し、マイケル・ジャクソンを追悼したくなり、ノッカンドゥーを弔い酒に推したくなる。なんだって二年もたった今になってマイケル・ジャクソンの死を持ち出してくるのかって思う人は思うだろうけれど、ノッカンドゥーにはそれだけ死亡フラグが立っているのです。
最後に、ATOKの購入決めました。
February 06, 2010
愛しきものは――
「自己アピール」と、男はものものしげに落胆した。「今の時代、その差で決まる」
私は肩をそびやかし、賛同できかねる様子で彼を見つめ返した。
「仕事も、女も」と、さらに男は続けた。「わびさびなんざ、良くて自己満足じゃないか」
明らかにアルコール臭のする会話だったが、私達は勤務中で、場所はオフィス、それも窓口だった。私はブラックコーヒーと一緒に苦言を飲み込んだ。
「アピールはするものじゃない。自然と出てくるものさ。アピールしようとしたって、するものもない人間だっているし」
「それで仕事と女にありつけるってか」
私は柱時計を盗み見た。彼がこの話題をはじめてから、2時間を越えている。そろそろコーヒーをダースで買っておかなかったことを後悔しはじめていた。
痺れ切らし、私は啖呵を切った。
「つまり何が言いたいんだ」
「せっかく映画化するってのに、『シャッター・アイランド』のこの宣伝方法はないってことさ」
煮え湯で喉がひりひりするのを感じた。
「すまない。私もそう思う」
私は肩をそびやかし、賛同できかねる様子で彼を見つめ返した。
「仕事も、女も」と、さらに男は続けた。「わびさびなんざ、良くて自己満足じゃないか」
明らかにアルコール臭のする会話だったが、私達は勤務中で、場所はオフィス、それも窓口だった。私はブラックコーヒーと一緒に苦言を飲み込んだ。
「アピールはするものじゃない。自然と出てくるものさ。アピールしようとしたって、するものもない人間だっているし」
「それで仕事と女にありつけるってか」
私は柱時計を盗み見た。彼がこの話題をはじめてから、2時間を越えている。そろそろコーヒーをダースで買っておかなかったことを後悔しはじめていた。
痺れ切らし、私は啖呵を切った。
「つまり何が言いたいんだ」
「せっかく映画化するってのに、『シャッター・アイランド』のこの宣伝方法はないってことさ」
煮え湯で喉がひりひりするのを感じた。
「すまない。私もそう思う」
January 23, 2010
かくあるべき
「作文とはこうあるべき」と、私が高校生時代の冬、黒板の楷書体に教師が拳を打ちつけた。間違ってはいないだろうが、いささか寸足らずで、何より当時の私にとっては難解すぎる文面だった。「自分の体験を、自分の感じたように、自分の言葉で書きなさい、それが作文だ」おぼろげな記憶に頼るなら、恐らくこの言葉が、私と彼との最期の会話だった。彼は、その年の桜が散り、私が予備校まで道に迷わずに通えるようになった頃、心筋梗塞で亡くなった。
当時の私の文集を眺めると、この高校教師の教えとはまるで逆行していた。例えば、「私は今日、友人Aに連れられて〇〇店へと、食事をするために足を運んだ。店は小奇麗だったが、主人の顎には剃り残しが目立っていた。テーブル席は四つしかなく、主人の歯も純正のものは四つしかなった」といったものだ。この一節にしても、自分の体験など無いに等しいし、自分の言葉うんぬんの以前に、感情や感想の記述にいたっては皆無である。ここにはもちろん当時から酔狂していたチャンドラーの影があり、口癖はもっぱらハードボイルドとはかくあるべきでなどという、まるで高校生には似つかわしくない私自身の自尊心なるものが絡んでいたのは事実である。正直なところ、『長いお別れ』は一字一句漏らさず舐めるように読んでも、教師の言葉など右の耳から左の耳だったのだ。
ところがこの教師もなかなか懐の深い方で、養老孟司氏の文章に屁理屈垂れながらも、私のやり方を頭から否定せずに、もうちょっと自分の感じたことをハッキリ書いたっていい、などと励ましてくれたりもする。しかし、あまりに感情を描写し過ぎる作品はハードボイルドとして成り立ち得ないというのが、当時から変わらず今でも私の心情であり、たとえ取るに足らない作文一作であってもハードボイルドという立場を崩したくはなかった。こんな些細な理由から、私と教師とは良く揉めたものだった。そして、この小さな争いの決着も先延ばしにされたまま、先にも書いたように彼は他界してしまった。
結局、この教師と私の間にできた分かり合えない溝は埋まらないままだったわけである。そして現在、彼の眠る墓石には「憩い」と刻まれている。この「憩い」を私は見たとき、なんとも無責任な言葉だと感じずにはいられなかった。自分の体験を、自分の感じたように、自分の言葉で書くということを説いてきた教師にとって、なんとも投げやりで、無個性で、無骨で、感動のない言葉なのではないかと思った。墓園を一通り眺めてみても、似たような言葉が並んでいる。なんだか彼の一生そのものまでもが、そこに埋もれてしまったかのように感ぜられる。言葉や文字には、人の一生すら平坦にしてしまう力がある。ただ思うのが、もし仮に教師が死してなおこの「憩い」に対し、「自分の体験を、自分の感じたように、自分の言葉で書いていない」とお説教するならば、彼の死に様もなかなかハードボイルドなのではないだろうか。誇りを貫いた北方流のハードボイルド臭さがなんだか鼻腔を擽ってくる。生き方とは、かくあるべきなのかなと。
当時の私の文集を眺めると、この高校教師の教えとはまるで逆行していた。例えば、「私は今日、友人Aに連れられて〇〇店へと、食事をするために足を運んだ。店は小奇麗だったが、主人の顎には剃り残しが目立っていた。テーブル席は四つしかなく、主人の歯も純正のものは四つしかなった」といったものだ。この一節にしても、自分の体験など無いに等しいし、自分の言葉うんぬんの以前に、感情や感想の記述にいたっては皆無である。ここにはもちろん当時から酔狂していたチャンドラーの影があり、口癖はもっぱらハードボイルドとはかくあるべきでなどという、まるで高校生には似つかわしくない私自身の自尊心なるものが絡んでいたのは事実である。正直なところ、『長いお別れ』は一字一句漏らさず舐めるように読んでも、教師の言葉など右の耳から左の耳だったのだ。
ところがこの教師もなかなか懐の深い方で、養老孟司氏の文章に屁理屈垂れながらも、私のやり方を頭から否定せずに、もうちょっと自分の感じたことをハッキリ書いたっていい、などと励ましてくれたりもする。しかし、あまりに感情を描写し過ぎる作品はハードボイルドとして成り立ち得ないというのが、当時から変わらず今でも私の心情であり、たとえ取るに足らない作文一作であってもハードボイルドという立場を崩したくはなかった。こんな些細な理由から、私と教師とは良く揉めたものだった。そして、この小さな争いの決着も先延ばしにされたまま、先にも書いたように彼は他界してしまった。
結局、この教師と私の間にできた分かり合えない溝は埋まらないままだったわけである。そして現在、彼の眠る墓石には「憩い」と刻まれている。この「憩い」を私は見たとき、なんとも無責任な言葉だと感じずにはいられなかった。自分の体験を、自分の感じたように、自分の言葉で書くということを説いてきた教師にとって、なんとも投げやりで、無個性で、無骨で、感動のない言葉なのではないかと思った。墓園を一通り眺めてみても、似たような言葉が並んでいる。なんだか彼の一生そのものまでもが、そこに埋もれてしまったかのように感ぜられる。言葉や文字には、人の一生すら平坦にしてしまう力がある。ただ思うのが、もし仮に教師が死してなおこの「憩い」に対し、「自分の体験を、自分の感じたように、自分の言葉で書いていない」とお説教するならば、彼の死に様もなかなかハードボイルドなのではないだろうか。誇りを貫いた北方流のハードボイルド臭さがなんだか鼻腔を擽ってくる。生き方とは、かくあるべきなのかなと。
January 16, 2010
劇団四季キャッツ
こんばんは。生まれて初めて自分の財布からお金を出してミュージカルなるものを鑑賞してまいりました。かつてはブロードウェイでロングラン公演記録保持者の名をほしいままにした『キャッツ』。今日鑑賞してきたのは、その劇団四季バージョンです。今夜の記事は自分への覚書も兼ねて記録しておこうかなと思います。
ミュージカルをはじめて観て感じたことは、一つ目にセットが非常に手の込んだもんである、二つ目に演出の追求に余念が無い、三つ目に舞台のフックに独自性がある、とこの三点です。
一つの目のセットについてですが、まずこの『キャッツ』というミュージカルを観るために、シアターへ観客が足を踏み入れた瞬間、何よりも目も瞠るものが、そのセットの精巧さと入念さではないでしょうか。猫目線から見た路地裏の世界を忠実に構築した壁面に、朧月に照らされた舞台、そのいかにも雑然とした空気だけで物語の中に引き込まれるようです。ガラクタ一つとっても、泥の乗り方から破損の仕方まで非常に芸が細かい。神は細部に宿る、そんな言葉を思い出させます。
二つ目に、演出に余念が無い。これはもう誰もが思うように、演劇とは演出の「演」の劇であって、そこに面白みがある。歌い、踊り、魅せることが最も見所なようです。この歌い、踊り、魅せることが物語の進行に直結するので、もしも演劇業界にシナリオライターという役割配分があったとしたなら、それはさぞかし見せ場のみに作業時間が割けるのではないでしょうか。
三つ目に、フックの独自性。百聞は一見にしかず。これは言葉で伝えられるよりも、シアターに浸かった方が納得できます。演劇が始まった瞬間、まだ物語は何も始まっていないのに、観客が瞬く間に演劇の一部になれるのです。このフックの独自性は、上手くすればゲームにも使えそうなので、次回作に温存してここでは濁しておきます。
やっぱりこの三点、ここまで読んで下さっていれば分かるとおり、連動していて切っても切り離せない関係なのです。観客がシアターに足を踏み入れた時点で既に、物語に引き込むセットという演出による強烈なフックがあり、この下支えのものとに成り立ってゆくキャッツワールドを彩る歌と踊り。この三点がミュージカルの強みなのかなと。
同人物書きから眺めたキャッツというミュージカルはこんな具合です。見習うところは沢山あります。ただ土俵が違うので、良いところを盗んであとはどう活かすのか、試行錯誤は続きます。
January 10, 2010
第二回テーマソング打ち合わせ
こんにちは。昨日は寒空の下、片道二時間をかけながらも第二回テーマソングの打ち合わせに参加してきました。通勤とは違ってこの道程は少しも苦ではありません。むしろ逆に鼓動は高鳴ります。参加メンバーはギター担当の志賀くんと、ヴォーカル&歌詞担当の維緒さん、それと自分の全3名です。自分以外のお2人ともは、生粋のピラニア・ポリーパー(?)です。彼らとも関係がだんだんと深くなってまいりましたので、本サイトのリンクにもバンドメンバーのブログを追加しておきました。
今回の打ち合わせは前回の反省を活かし、集中するために会場を喫茶店としました。適当にドアを引いたお店だったのですが、蓋を開けてみれば大当たりと言っても過言ではないほど洒落たお店。居心地が良いだけでなく、雑音量、広さ、混雑具合など、打ち合わせにはなかなか持って来いの空間です。機会があれば是非またお邪魔したいものです。
さて肝心の内容はといいいますと、まずまずの進展具合といったところではないでしょうか。自分からGITANEの解説をほぼ一方的に口頭で行い、合間合間に質問を挟んでもらうという、なんとも口下手な自分には向いてない打ち合わせ方法だったわけですが、まぁよくしゃべらせてもらったせいか、終わった後はむしろスッキリ。一人で河馬みたいに水をがぶ飲みし、トイレのために何度も席を立ち、それからまた喋り続ける。疲労困憊でした。ちなみに写真はこの打ち合わせの様子です。ウィルキンソンでハードボイルドを感じましょう。
打ち合わせ後は、せっかく集まったので夕食をご一緒させていただきました。人生初体験のタイ料理です。辛いのは苦手ですが、パクチーは食べられます。中国でホームステイをしている時に、よく食べた記憶があります。ちょっと郷愁の味と香りです。食事中は、なぜかミラーボウルが回る異国情緒漂う店内の中で、ムーミン談義に花が咲きました。知りませんでしたが、なかなかムーミンは奥が深いです。次回作に向けて、実はかなり参考となる維緒嬢の講釈だったのではと、改めて考え直しております。